マリー・アントワネットの子供たち【母を奪われた皇女たちの運命】

1795年、パリのタンプル塔。ひとりの少年が静かに息を引き取った。

かつてヴェルサイユで金色の巻き毛を揺らし、母マリー・アントワネットに抱かれていた王子は、今や「名もなき囚人」だった。

監禁生活を送る国王一家 (監禁生活を送る国王一家)

彼の名はルイ=シャルル、ルイ17世。王位継承者として生まれながら、玉座に就くこともなく、群衆の歓呼ではなく、沈黙と悪臭に満ちた牢獄で最期を迎えた。

この少年の死は、フランス王政の終焉だけでなく、ヨーロッパにおける王権秩序の限界をも象徴するものだった。

この記事のポイント
  • マリー・アントワネットの子女として生まれた子供達
  • ふたりは夭逝するも、生き残ったふたりも革命の嵐に飲まれた
  • 王党派に担がれたルイ17世は監禁され獄死、生き残ったのは姉マリー・テレーズだけだった

ベルサイユの陽だまりに生まれて

Marie Antoinette and children (マリー・アントワネットと子供達)

ルイ=シャルルは1785年、ヴェルサイユ宮殿でフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男として生まれた。

兄ルイ=ジョゼフが夭折したことで、1790年には王太子となった。母はオーストリアのハプスブルク家出身。

彼はブルボンとハプスブルクという二大王家の血を引く、まさに「王権の象徴」として育てられた。だが、それは同時に、政治的緊張の中心に置かれる運命でもあった。

1789年のフランス革命は、彼の存在に新たな意味を与えた。民衆にとっては“旧体制”そのものであり、王党派にとっては“希望”であった。

まだ幼い少年は、そのどちらの願いにも応えるすべを持たなかった。

王政の崩壊と「王子」の政治的利

1791年の逃亡失敗(ヴァレンヌ事件)を経て、王政は急速に崩壊に向かった。1792年に王政が廃止されると、ルイ16世は翌年1月に処刑され、10月にはマリー・アントワネットも断頭台に消えた。

両親を失ったルイ=シャルルは、8歳にして“王冠なき王”となる。王党派は彼を「ルイ17世」として推戴するが、革命政府にとっては危険な象徴だった。

フスタフ・ワッペルス画、監禁されるドーファン (ルイ17世) (監禁されたルイ17世)

彼は「靴屋」アントワーヌ・シモンのもとに引き渡され、再教育を名目に厳しい監視下に置かれる。

史料によれば、衛生環境は極めて劣悪で、暴力や虐待が常態化していたという。

1794年にはシモン夫妻が罷免され、以後少年は隔離されたまま、誰とも接することのない日々を送る。その中で栄養失調、皮膚病、結核などが進行していたと考えられている。

死と“忘却”――そして200年後の証明

1795年6月8日、ルイ=シャルルは死亡。埋葬記録には「名もなき少年」とされ、急ぎ共同墓地に葬られた。

王党派はその死を信じず、各地に“偽ルイ17世”が現れた。だが、1815年に当時の監察医によって密かに摘出され、保存された彼の「心臓」が、後世に重要な意味をもたらす。

2000年、フランス・ドイツ・ベルギーの研究機関によってDNA鑑定が行われ、マリー・アントワネットの遺髪と一致する結果が出た。この心臓はルイ=シャルル本人のものであると、科学的に確認されたのである。

2004年、彼の心臓はサン=ドニ大聖堂に安置され、ブルボン家の歴代王と同じ場所に「戻された」。彼の名はついに、公式に「ルイ17世」として弔われた。



姉マリー・テレーズの視点から見る悲劇

その間、マリー・テレーズもまた孤独の中にいた。階下から聞こえる弟の泣き声、本を繰り返し読むしかない日々――それが彼女の青春だった。

 (マリー・テレーズを描いた絵 「寺院の孤児」)

そんな彼女を救ったのは、皮肉にもハプスブルク家であった。

1795年、17歳の誕生日、彼女は母の兄弟である皇帝フランツ2世の囚人と交換され、オーストリアに送られることとなる。

フランスで生まれた王女が、ウィーンの地に再び降り立った瞬間、歴史は静かに円を描いた。

ハプスブルクの血を引く最後のブルボン王女として、彼女は母の故郷に迎えられた。だが、そこは安息の地ではなかった。

彼女がかつて知っていた人々は亡命しており、家族はすべて命を奪われていた。

ブルボンとハプスブルクの狭間に

1799年、マリー・テレーズは父の弟の子である「ルイ・アントワーヌ」と結婚。

これはブルボン王朝の復権を見据えた政略結婚であり、彼女はハプスブルクの誇りとブルボンの重荷を両肩に背負うことになった。

1814年、ナポレオンの失脚とともにルイ18世が王位に就くと、彼女は「王妃」としてフランスに戻る。だが、彼女はヴェルサイユの栄華を再現することはなかった。

浪費癖のあった母とは対照的に、彼女は質素を貫き、45人の使用人だけを抱えるにとどめた。その姿は、王妃ではなく、「革命と喪失を知る証人」であった。

彼女は生涯、「弟の遺体はどこに?」と問い続けたと伝えられる。その問いに、ようやく答えが出されたのは、彼女の死から150年後のことであった。



まとめ

ルイ=シャルルは、名目上の王に即位することも、統治することもなかった。だが、その存在自体が、王政という制度の限界と脆さを露呈させた。

彼の死はただの夭折ではなく、「王」という概念が群衆の手に委ねられた時代の転換点だったとも言える。しかもその背後には、ヨーロッパの王家が黙認した“沈黙”が横たわっていた。

ハプスブルクとブルボン、その両方の血を受け継ぎながら、彼はどちらの王家にも守られることはなかった。

この小さき死は、王冠と血筋の時代に終わりを告げた象徴だったのかもしれない。

さらに詳しく:
📖 【王妃はなぜ憎まれたのか】マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇
📖 【フランス革命とは何だったのか】ブルボン家崩壊の衝撃
📖 ハプスブルクの血と落日【マリー・アントワネットの子供たちの最後】

参考文献
  • Fraser, Antonia. Marie Antoinette 
  • Gendron, François. The Gilded Youth of Louis XVI
  • Jean Tulard (ed.), Dictionnaire Napoléon 
  • 画像引用:Wikipedia Commons (パブリックドメイン)、ルイ17世の心臓: File: Coeur de Louis Charles de France (Louis XVII).jpg Photo by Zantastik, Wikimedia Commons, 2004. Used under Creative Commons or assumed public domain.

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