スペイン・ハプスブルク家最後の王として知られる。
生涯を通じて病弱でありながら、広大な帝国を統治したが、その治世は内政の混乱と国力の衰退に悩まされた。
彼の死は「スペイン継承戦争」を引き起こし、ヨーロッパの勢力図を大きく変えることとなった。
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カルロス2世とは何者か?肖像画が語る”スペインハプスブルク家最後の王” ▶
基本情報
| 主な称号 | スペイン王 |
| ナポリ王およびシチリア王 | |
| サルデーニャ王 | |
| ミラノ公 | |
| ブルゴーニュ公およびシャロレー伯 | |
| フランドル伯およびアルトワ伯 | |
| 出生 | 1661年11月6日 (マドリード) |
| 死去 | 1700年11月1日 (マドリード) |
| 治世 | 1665年10月17日〜1700年11月1日 |
| 伴侶 | マリア・ルイサ・デ・オルレアンス |
| マリアナ・デ・ネオブルゴ | |
| 子女 | なし |
| 父親 | フェリペ4世 |
| 母親 | マリアナ・デ・アウストリア |
| 前任者 | フェリペ4世 |
| 後継者 | – フェリペ5世 (ブルボン家) |
人物の背景
カルロス2世は1661年11月6日、マドリードで誕生した。父はスペイン王フェリペ4世、母はマリアナ・デ・アウストリアである。
両親は、叔父と姪という血縁関係にあり、ハプスブルク家特有の婚姻政策が原因で、カルロス2世は深刻な遺伝的問題を抱えることとなった。

スペインハプスブルク (当主の家系図) © Habsburg-Hyakka.com
治世で起きた主要な出来事
⚫︎帝国の衰退と経済危機(1665 – 1700)
カルロス2世が幼くして即位した当初、スペインはすでに三十年戦争後の混乱と国家財政の破綻に苦しんでいた。
母マリアナ王太后の摂政政治は宮廷派閥の抗争に覆われ、銀山の枯渇と度重なる戦争で帝国経済は崩壊的な打撃を受ける。貴族層は特権を守ることに終始し、地方では飢饉と疫病が相次いだ。
⚫︎王の病と宮廷の迷信支配
重度の身体的障害と精神不安に苦しんだカルロス2世は、「呪われた王」と噂され、占星術師・祈祷師・悪魔祓いが宮廷に出入りした。
医師たちは治療法を見出せず、教会的迷信と医学が入り混じった異様な“宗教医療”が支配的となる。この時期、スペイン宮廷は理性よりも信仰と恐怖によって動かされていた。
⚫︎対仏関係の悪化と失地(1667 – 1697)
フランスのルイ14世が覇権を拡大する中、スペインはフランドル・ルクセンブルク・ロレーヌなどを相次いで失う。
オランダ侵攻やナイメーヘンの和約(1678)、リスボン条約(1668)などで、スペインの国際的地位は急速に低下した。
ハプスブルクの威信はかつての“太陽の沈まぬ帝国”の面影を失う。
⚫︎王位継承問題と遺言(1700)
カルロス2世には子がなく、死の間際まで後継者をめぐる外交戦が続いた。最終的にフランス王ルイ14世の孫フィリップ・ダンジュー(のちのフェリペ5世)を後継に指名。
これが翌年、ヨーロッパを巻き込むスペイン継承戦争(1701–1714)の引き金となる。彼の死とともに、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。
カルロス2世の治世は、ハプスブルク帝国の最終章にして、王家の血と信仰、そして衰退のすべてが凝縮された時代であった。
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

