沈黙の皇妃、失望の帝国へ嫁ぐ|マクシミリアン1世の母エレオノーレ

王女エレオノーレ・デ・アヴィスがウィーンに降り立ったとき、彼女の瞳に映ったのは、寒々しく薄暗い城館だった。

フリードリヒ3世の王妃、エレオノーレ (皇妃エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル)

陽光と海風に満ちたポルトガルの宮廷から来た彼女には、それはあまりにも貧しく、あまりにも沈黙に包まれていた。──そして夫となる皇帝フリードリヒ3世もまた、何ひとつ語らぬ男だった。

この記事のポイント
  • ポルトガル王女エレオノーレは、フリードリヒ3世の皇妃として嫁入りした
  • 貧しい宮廷と無言の皇帝に絶望するも、息子を皇帝の器を育て上げた
  • 息子マクシミリアンは、やがてヨーロッパを震わせる男となる

ポルトガルから嫁いできた皇妃

“帝国の設計者”と呼ばれるマクシミリアン1世──その母が、ポルトガル王家から遥々嫁いできたエレオノーレ・デ・アヴィスである。

1434年、リスボンに生まれた彼女は、学識と芸術に秀でた宮廷で育ち、ヨーロッパでも指折りの「王妃候補」と目された。やがて神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世との縁談が整い、若き王女は皇妃として海を渡る。

しかしそれは、栄光への旅ではなかった。彼女を待ち受けていたのは、寒々しい石の城と、何も語らぬ“無言の皇帝”であった。

ウィーンの衝撃

リスボンの宮廷は、南国の陽光と航海王国の富に満ちていた。

広々とした大理石の宮殿には音楽が鳴り響き、詩人と学者が集い、王女たちは優雅な教育を受けて育った。エレオノーレもまた、学問・芸術・礼法に親しみ、文化の華の中で王女としての誇りを自然に身につけていった。

対してウィーンの宮廷は、あまりにも寒々しかった。

湿った石造りの建物、煤けた壁、乏しい暖房。食卓には乾いたパンと水が並び、廷臣たちは礼儀も文化もなく、粗野な振る舞いを恥じなかった。

エレオノーレは、あまりに違うこの二つの世界の落差に愕然とした。

フリードリヒ3世との結婚 (フリードリヒ3世と結婚)

“貧しき帝国”の現実

嫁いだ先のハプスブルク家は、噂に違わず“貧しき王家”だった。

かつて皇帝を輩出した名家とは思えぬほど、その財政は逼迫していた。ウィーンの宮廷は質素を通り越して陰鬱で、廷臣たちの話題は常に金策であった。

そして何より、夫フリードリヒ3世の「無為と沈黙」が、彼女の心をさらに暗くした。国家の大事も、家庭の問題も、彼は何も語らず、何も決めようとしなかったのだ。

失望と孤独

フリードリヒは内気で無口なだけでなく、即断即決を避ける優柔不断の権化だった。文書の返答には年単位の遅延、家臣の争いにも沈黙、戦争を前にしても静観。

エレオノーレは、かつて父ドゥアルテ王が見せた毅然たる統治者の姿と比べ、目の前の夫が「皇帝の名を借りた陰」のように思えた。

失意のなかでも、彼女は表情を崩さなかった。侍女の日記には「沈黙の奥に激しい怒りと悲しみを湛えていた」と記されている。

皇妃としての役割

それでもエレオノーレは、ポルトガル王女としての誇りを手放さなかった。

彼女は宮廷の文化を改め、音楽と言語、外交儀礼を整え、わずかながらも宮廷に「知性と光」をもたらそうとした。とりわけ、子マクシミリアンの教育には心血を注いだ。

語学、戦術、礼法──あらゆる学問を惜しみなく授け、皇帝らしい品格を身につけさせた。彼女は、自分が果たせなかった夢を、息子に託したのだった。

 母の誇り、息子の栄光

Maximilian I (マクシミリアン1世) (マクシミリアン1世)

その息子マクシミリアンは、やがてヨーロッパを震わせる男となる。

ブルゴーニュ公女マリアとの政略結婚により、広大な領土と莫大な富をハプスブルクにもたらし、“婚姻外交”を家の伝統に昇華させた。

そして後には「中世から近世への橋渡し」とも称される改革者として、神聖ローマ帝国を次なる時代へと導いたのである。

人々はこの才能を「父フリードリヒの粘り強さ」と「母エレオノーレの聡明さ」の賜物と語ったが、後者の影響がいかに深いものであったかは、マクシミリアン自身が最もよく知っていた。

まとめ

エレオノーレ・デ・アヴィスは、歴史の表舞台にその名を大きく刻むことはなかった。だが、静かに、しかし確実にハプスブルクの未来を変えた存在であった。

彼女が見た“沈黙の宮廷”と“無言の皇帝”の現実。それは侮蔑でも拒絶でもなく、受け入れ、耐え、そして自らの役割を果たすという、ひとつの覚悟だったのだ。

そして彼女の沈黙は、やがてマクシミリアンという嵐を育て、帝国の新しい時代を開いた。皇妃として、母として、エレオノーレは確かにその礎を築いたのである。

さらに詳しく:

参考文献
  • Franz Fuchs, “Kaiser Friedrich III.: Eine Biographie” (2008)
  • Alfred Kohler, “Friedrich III.: Kaiser und Reich im Wandel der Zeit” (2013)
  • Brigitte Hamann, “Die Habsburger: Ein biographisches Lexikon” (1996)
  • Primary Documents from the Österreichisches Staatsarchiv (Austrian State Archives)
  • 『ハプスブルク家の歴史を知るための60章』(明石書店)
  • ハプスブルク家の女たち 江村洋

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