【美貌とダイエットに囚われた皇妃エリザベート】自由放浪の代償

その皇后は、夜明け前に鏡の前に立った。

髪の毛が1本抜けただけで侍女を叱責し、食卓には野菜と果実しか並ばなかった。美しさが王冠より重くなった日から、彼女の逃避行は始まった。

エリザベート (エリザベートの肖像画)

ウィーンを、夫を、子どもさえも残して、エリザベート──“シシィ”は旅に出る。「美と自由」という呪いを抱いて。

この記事のポイント
  • 1837年、皇帝の一目惚れにより「皇后」という運命を背負った少女シシィ
  • 堅苦しい宮廷に疲れ、自由を求めて旅を続け、美と孤独に生き続ける
  • 1898年ジュネーヴで非業の死を遂げ、語り継がれる存在となる

王冠と檻──皇后としての幕開け

エリザベート──この名を聞いて、何を思い浮かべるだろうか。絶世の美女か、それとも憂いをたたえた放浪の皇妃か。

バイエルン王家に生まれ、詩と自然を愛した少女エリザベートは、16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに見初められた。姉ヘレーネの見合いの席で突然その運命を変えた。

輝くような金髪と天真爛漫な笑顔。だが、無垢な少女が皇后となるその日から、彼女の自由は剥ぎ取られていった。

姉ヘレーネの見合いの席で突然その運命を変えた。輝くような金髪と天真爛漫な笑顔。だが、無垢な少女が皇后となるその日から、彼女の自由は剥ぎ取られていった。

嫁姑の対立

姑ゾフィーは冷たく、徹底してシシィを宮廷の型にはめ込もうとした。

敬称「Sie」で呼ぶことすら義務づけられ、子どもたちは次々に奪われた。息子ルードルフでさえ、彼女の腕の中に長くはいなかった。

その喪失感と軋轢の中で、シシィは“美”を逃避先とするようになる。

ウエスト50cmを維持するため、果実とスープのみの食事。朝は体重測定、日中は数時間の乗馬。彼女の美は、宮廷の誇りではなく、彼女の「孤独」の形だった。

奪われた子と壊れた母性

初子ゾフィーは2歳で夭折。

次女ギーゼラも、男児を望む姑に取り上げられる。だが、ついに皇太子ルードルフが誕生。エリザベートは勝った、はずだった。

Empress Elisabeth with her two children and a portrait of the late Archduchess Sophie Friederike (1858) (二人の子供とエリザベート)

幼いルードルフを腕に抱いたとき、シシィの胸にはほんの束の間、母としての誇りが灯った。だがその火は、すぐに姑ゾフィーの冷たい風に吹き消される。

教育は姑の手で行われ、母の名のもとに育てられた息子とシシィの間には、決して越えられない壁ができた。

宮廷の中で最も近しく、最も遠い存在──それがルードルフだった。やがて彼は青年となり、心に闇を宿したまま、マイヤーリンクで不可解な死を遂げる。

その瞬間、エリザベートの「皇后」としての心は、完全に死んだ。息子を守れなかった自責と、最期にすら寄り添えなかった後悔。

その深い傷が、彼女の魂を決定的に引き裂いたのである。やがてルードルフは成長するも、マイヤーリンクで不可解な死を遂げる。

この瞬間から、エリザベートの「皇后」としての心は完全に死んだといえる。

逃亡する皇后──ハンガリー贔屓の真意

1860年、シシィは突如としてウィーンを離れる。向かったのはマデイラ島──その後もギリシャ、イギリス、地中海、そしてブダペスト。

この地こそ、彼女が心から笑顔を見せた数少ない場所だった。

だが、それもハンガリーびいきという政治的波紋を呼び、ウィーン宮廷との溝は決定的となる。自由への憧れと、ゾフィーへの反発。

それはやがて、帝国の統治構造をも変えていく。1867年、ついにオーストリア=ハンガリー二重帝国が誕生。エリーザベトの“偏愛”は、帝国を東方へと再構成する導火線となった。

逃げるようにして旅を続ける彼女は、いつしか“奇妙な皇后”と呼ばれるようになる。

美と老いのはざまで──最後の逃避行

美貌を保つことに命を削るようになったエリザベートは、人前で素顔を見せなくなった。髪は1本たりとも抜けることを許されず、鏡の前に立つたび、老いへの恐怖に怯えた。

だが彼女には、いまや信仰もなく、帰るべき場所もなかった。

夫フランツ・ヨーゼフの孤独を知りながら、彼のもとに戻ることはなかった。皇后としての務めからも、母としての愛からも、女としての期待からも、彼女は逃れ続けた。

1898年、ジュネーブ湖畔。暗殺者ルケーニの刃が、彼女の胸を刺した。それは標的を見失った末の偶然だったが、彼女にとっては「ようやく訪れた終幕」だったのかもしれない。

イタリアのアナキスト、ルイジ・ルケーニによるエリザベートの刺殺を描いた芸術家の描写 (エリザベートの刺殺を描いた芸術家の描写)

死してなお、美しかった。

彼女が生きたのは、愛されることよりも、見られることが優先された時代だった。シシィはその頂点に立たされた象徴だったが、同時に誰よりもそれを嫌悪し、逃れようとした。

帝冠の輝きより、海の静寂を。宮廷の栄華より、一人きりの山道を。彼女が追い求めた“自由”とは、結局のところ誰にも干渉されない孤独だったのかもしれない。

だが、孤独は彼女を慰めることなく、ますます深い闇へと導いた。そして死の瞬間にさえ、彼女の美は損なわれなかったという。

それは祝福か、それとも最期の呪いだったのだろうか。

まとめ

王冠に抗い続けた魂。ウィーンの宮廷に咲いた一輪の白薔薇は、終ぞ満開を見ぬまま、哀しみの海へと散っていった。

彼女が愛した自由とは、誰のものでもない“無”であり、そして誰にも触れられぬ“孤高”だった。その代償に、彼女はすべてを失った。母として、皇后として、ひとりの女性として。だがその喪失が、皮肉にも彼女を永遠へと変えたのである。

時代に呑まれながら、時代を超えた存在となった皇妃エリザベート。美と自由、そのどちらにも手を伸ばし、そしてどちらにも決して届かなかった彼女は、いまもなお、絹のような記憶の中で、静かに揺れている。

さらに詳しく:
📖 自由か規律か|ゾフィーとエリザベート、帝国をめぐる嫁姑戦争
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
📖 フランツ・ヨーゼフ1世|ハプスブルク最後の栄光、その代償は

参考文献
  • Brigitte Hamann『エリーザベト ― 皇妃になりたくなかったプリンセス』(Piper, 1992)

  • Jean-Paul Bled『Franz Joseph』(Fayard, 2008)

  • Alan Palmer『Twilight of the Habsburgs』(Grove Press, 1997)

  • Österreichisches Biographisches Lexikon

・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
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・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
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・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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