玉座に座り続けるだけの男。
剣も抜かず、決断もせず、周囲からは「何もしない皇帝」と囁かれていた。政敵たちは嗤い、民衆は失望し、側近でさえ目を伏せた。
(フリードリヒ3世)
だが、彼はただ耐えた──笑われても、遅れていても、静かに、しつこく。フリードリヒ3世は、ハプスブルクの未来をひとりで支えていたのである。
この記事のポイント
- 1440年、ラディスラウスの後見人としてドイツ王に即位
- ローマで最後の皇帝戴冠をうけ、宗教支配でも主導権を握る
- 息子の結婚によりブルゴーニュ継承戦争を制し、帝国の再統一を果たす
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ハプスブルク家の返り咲き
13世紀末、ハプスブルク家はルドルフ1世、アルブレヒト1世と2代にわたって「ドイツ王位」に就いたが、いずれもローマ教皇からの皇帝戴冠には至らなかった。
以後、ハプスブルク家はおよそ150年間、神聖ローマ皇帝の座から遠ざかることとなる。
ようやくその帝冠を取り戻したのが、フリードリヒ3世である。彼は1452年、ローマで正式に皇帝戴冠を受けた最後の人物でもあった。
だが、彼が皇帝に選出されたのは、才能や武力によるものではない。「何もしない男」、すなわち諸侯たちにとって無難な存在だったがゆえに、彼は選ばれたのである。
その頃のハプスブルク家の領地といえば、現在のオーストリア南部にあたるシュタイアーマルク州とケルンテン州の山岳地帯。耕地は乏しく、収入も限られていた。
そんな貧しい小領主の家に生まれたフリードリヒが、後にヨーロッパを揺るがす王朝の礎となるとは、誰も予想していなかった。
「決められない」皇帝
即位後も、彼の優柔不断ぶりは変わらなかった。
書簡への返答は遅れに遅れ、判決の先延ばしは日常茶飯事。ある文書は、返事が届くまでに10年を要したという記録すらある。
帝国議会では黙りこくり、戦争では動かず、臣下の諍いを前にしても「そのうちなんとかなるだろう」と高を括っていた。その態度に、諸侯たちはついに業を煮やし、「石のように動かぬ皇帝」と揶揄するようになる。
彼の宮廷は常に金欠で、食卓は質素を極めた。ウィーンの城の壁は剥がれかけ、廷臣たちは我先に他国へと仕官を求めて去っていく──帝国の中心は、まるで時代に取り残されたかのようだった。
それでも動かなかったのは
だが、それがフリードリヒの戦い方だった。彼は、戦場で剣を交えるのではなく、「時を味方にする」という唯一の武器にすべてを賭けていた。
ハンガリー、ボヘミア、バイエルン──彼に敵意を抱く勢力は多かったが、彼は決して先に仕掛けなかった。敵が自滅するのを、じっと待つ。
急がず、慌てず、時が彼に有利に働く日を、ひたすら待ち続ける。
そしてその間に、着々と布石を打っていく。息子マクシミリアンに最高の政略結婚を授けるため、フリードリヒは密かにブルゴーニュとの交渉を進めていた。
変わっていく帝国
フリードリヒの唯一の救いは、賢く穏やかな妃エレオノーレ・デ・アヴィスの存在だった。彼女はポルトガル王家の血を引き、洗練された宮廷文化と優れた教育を持ち込んだ。
(皇妃エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル)
エレオノーレの影響は、長男マクシミリアンに色濃く現れた。語学、戦術、礼儀作法、そして外交のセンス──すべてに彼女の影がある。
フリードリヒ自身が実現できなかった“皇帝らしさ”は、この妃を通じて、次世代へと確かに引き継がれていた。
世界を変えた「縁談」
1477年、ブルゴーニュ公シャルル突如の戦死により、ひとり娘マリアが莫大な領土の後継者となった。フリードリヒはただちにマクシミリアンとの婚姻を申し入れ、あれよあれよという間に同盟が成立。
これによってハプスブルク家は、ネーデルラント・ブルゴーニュの広大な土地と富を手にする。フリードリヒの消極的な政権が、一瞬にしてヨーロッパの地図を塗り替えた瞬間だった。
そして後に、この結婚がきっかけとなって、フランスとの長い対立とスペインとの連携が始まり、“日の沈まぬ帝国”の地盤が整っていくのである。
息子は父を嫌ったが──
マクシミリアンは、父フリードリヒの遅さと無策にしばしば苛立ったという。若くして戦場に出、政治と軍事で華々しく活躍する彼には、玉座にじっと座り続ける父の姿がもどかしかった。
だが彼は、父の死後、次第にその戦略の深さに気づくことになる。多くの城が焼かれ、都市が略奪された後も、ハプスブルクの中核は無傷だった。
フリードリヒの築いた“動かぬ帝国”は、静かに、しかし確実に次代を支えていたのである。
まとめ
フリードリヒ3世は、見た目も振る舞いも「皇帝らしくない皇帝」だった。
決断力に欠け、民心にも疎く、冷遇された時期も長い。だが、彼が王朝に残したものは何よりも強固だった──“時を味方にする”という、誰にも真似できない統治の方法で。
そして、その静かな支配の中には、妃エレオノーレの知性と品格が静かに注がれていた。二人の子マクシミリアン、そして孫カール5世が示した「覇者としての資質」は、決して偶然ではない。
マクシミリアン、カール5世へと続くハプスブルク帝国の道は、この「ポンコツ皇帝」の執念と我慢、そして妃の英知によって築かれていたのだ。
さらに詳しく:
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参考文献
- Peter Moraw, The Holy Roman Empire 1495–1806, Oxford University Press, 2011.
- Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Volume I, 1493–1648, Oxford University Press, 2012.
- Heinz Angermeier, Das Alte Reich in der deutschen Geschichte, München, 1991.
- Karl Vocelka, Französische und deutsche Herrscher im Spätmittelalter, Wien, 2003.
- ハプスブルク家の歴史を知るための60章 (明石書店)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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