【斧が振るわれた朝】スコットランド女王メアリーの死と無敵艦隊への序章

1587年2月8日、冷えきったフォザリンゲイ城。

長い幽閉を経たスコットランド女王メアリー・ステュアートは、淡々と階段を上がり、処刑台の上に立った。殉教を意識したその装いには、女王としての矜持と信仰がにじんでいた。

メアリー・ステュアートの処刑

だがこの処刑には、エリザベス1世の手では届かぬ“陰の観客”がいた。その名は──スペイン王、フェリペ2世。彼はこの処刑をもって、戦争を始める。

この記事のポイント
  • 英に亡命後、幽閉されたスコットランド女王メアリー
  • フェリペ2世は、彼女を「カトリックの後継者」として支援を画策した
  • しかしイングランド女王暗殺の計画がばれた、処刑は三度の斧で完遂、天に召される至った

「もう一人のイングランド女王」を支持した王

スコットランドの女王であり、フランス王妃でもあったメアリー・ステュアート。

 フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画) (フランスを去るメアリーの肖像画)

その血筋は、イングランド王ヘンリー7世にまでさかのぼり、宗教的にもローマ・カトリックに忠誠を誓っていた。

当時のイングランド王位を占めていたエリザベス1世が「庶子」とされ、正統性に疑問符がついていたことを思えば、メアリーこそが「正当な女王」と見る勢力が存在したのは、むしろ当然だった。

この“正統派”に加勢したのが、当時ヨーロッパ最大のカトリック王国を率いるフェリペ2世である。彼はかつてイングランド女王メアリー1世(エリザベスの姉)と結婚し、自らもイングランド王を名乗っていた。

メアリー1世の死後はエリザベスと距離を置き、プロテスタント国家との対立を深めていく。その中で、メアリー・ステュアートはカトリック同盟の象徴となっていった。

陰謀と処刑──火種となったひとつの命

1570年代、イングランドに亡命していたメアリーは、名目上エリザベスの庇護下にありながらも、度重なる謀略に巻き込まれていく。

なかでも決定的だったのが、1586年の「バビントン陰謀事件」。

イングランド内のカトリック教徒たちが、エリザベス暗殺とメアリー即位を狙って蜂起し、メアリーの関与を示す暗号文が押収されたとされる。

この事件を機に、エリザベスは断腸の思いで処刑令に署名した。女王が女王を処刑する──かつてない決断は、ヨーロッパ中を揺るがせた。

女王の手が震えた夜

「私の手は、この署名の後に清らかでいられるだろうか──」

記録に残るこの言葉の通り、エリザベス1世にとってもメアリー処刑は苦渋の選択だった。彼女は自ら命じたにもかかわらず、いざ執行となると使者の派遣を渋り、重臣たちに押し切られる形で処刑が進められたともいう。

その迷いは、後年の「責任逃れ」にも通じていく。エリザベスは、処刑実行を知って驚いたふりをし、命じた者を責め立てた。

フェリペの怒りとプロパガンダ

この処刑を受けて最も激昂したのが、フェリペ2世である。

彼はメアリーの死を「神に対する冒涜」とし、翌1588年、スペイン無敵艦隊をイングランドへと派遣する。

無敵艦隊の敗北 (参考:フェリペ2世と無敵艦隊の敗北)

実際には艦隊準備はすでに進んでいたが、メアリーの処刑は格好の「大義名分」となった。フェリペにとって、彼女は生前よりも死後の方が「政治的に有効な存在」となってしまったのである。

処刑台の上で──斧は3度振り下ろされた

メアリー・ステュアートの最期は、決して荘厳とは言いがたい。

伝えられるところによれば、最初の斧は首の骨を断ち切れず、2度目も不完全だった。3度目にしてようやく首が落ち、処刑人が掲げたその瞬間──

かつらが外れ、白髪の本当の髪が露わになったという。その姿は、「王女」の面影というより、時代の重みに耐えた「老いた女王」の象徴だった。

武者説、助命説──伝説になった女王

一部には「処刑されたのは影武者だった」という説や、「エリザベスは本心では処刑に反対だった」とする説もある。だがそれらに確かな証拠はない。

こうした説が生まれた背景には、メアリーの悲劇性とカリスマ性がある。

民衆は、あの美しく強き女王が無残に殺されることを、信じたくなかったのかもしれない。だがそれでも──毅然と処刑台に立った女王の姿は、確かにそこにあった。

とんでもない美貌とカリスマを誇ったひとりの王女。その命運は、ここで幕を閉じることとなった。



まとめ

メアリー・ステュアートは、波乱に満ちた生涯の末に処刑台に立った。

オランダの画家が描いたメアリーの処刑 (メアリー・ステュアートの処刑)

だが、その最期は“女王としての殉教”ではなく、宗教と権力に翻弄された一人の王族の、無残な結末だった。

処刑の衝撃はイングランドを超えてヨーロッパ全土を揺るがし、とりわけスペイン王フェリペ2世にとっては看過できぬ「挑発」と映った。彼はこの出来事を“神の怒り”と位置づけ、翌年、イングランド征服に動き出す──。

すなわち、「無敵艦隊(アルマダ)」の出撃である。メアリーの死は、帝国同士の対立を決定的な戦争へと変える、ひとつの導火線に過ぎなかったのだ。

さらに詳しく:
📖 【フェリペ2世と無敵艦隊の敗北】アルマダ海戦とスペイン帝国のほころび
📖 イングランド女王とフェリペ2世の対決|宗教戦争とアルマダの敗北
📖 スペイン黄金時代と帝国の陰りを刻んだ王【フェリペ2世とは】

参考文献
  • Antonia Fraser, Mary Queen of Scots, 1969

  • John Guy, Queen of Scots: The True Life of Mary Stuart, 2004

  • 高橋裕子『エリザベス女王とスコットランド女王メアリ』講談社現代新書, 1995

  • G.R. Elton, England Under the Tudors, 1955

  • Calendar of State Papers, Scotland and Elizabethan Series(英国国立公文書館)

  • Catholic Encyclopedia, 1913 edition, New Advent

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