1495年、神聖ローマ帝国はゆっくりと崩れはじめていた。地図の上には広大な領土が描かれているのに、その実態は数百もの小さな国の寄せ集め。
諸侯は争い、街は焼かれ、皇帝の命令がどこまで届くのかもはっきりしない。
そんな“まとまりのない帝国”の頂点に立っていたのが、ハプスブルク家のマクシミリアン1世だった。
彼は、武力で支配するのではなく、制度の力で帝国をひとつにまとめようとした、当時では珍しい皇帝である。
帝国を「名ばかりの連合」から「秩序を持った共同体」へと変えること――
それが、彼が挑んだ壮大な計画だった。
彼は、帝国を“ただの名ばかりの連合”から、“秩序ある国家”へと作り変えるという、誰も成し遂げられなかった壮大な計画に挑んだのである。
この記事のポイント
- イタリアは富と文化の中心で、常に他国の標的だった
- フランス王シャルル8世がアルプスを越え、ナポリへ向かったことでイタリア戦争が始まった
- この戦争をきっかけに、ハプスブルク家とフランスは300年にわたる宿命のライバルとなり、その頂点がフランソワ1世とカール5世である
永久平和令
当時の帝国では、領邦どうしの争いは“戦争で解決する”のが普通だった。気に入らない相手がいれば兵を出し、街を焼き、教会の鐘が鳴り響く。
そんな時代だった。マクシミリアン1世は、それを見てこう考えた。
「このままでは帝国は壊れてしまう。」
そこで彼が帝国議会に提出したのが「永久平和令」。帝国内での“私戦”を全面禁止し、争いは法と裁判で解決する――
という画期的な提案だった。これは、のちのヨーロッパの“法治国家”につながる。
小さく、けれど決定的な一歩だった。
帝国クライス制の誕生

帝国クライス制度 (© Habsburg-Hyakka.com)
だが、平和令だけでは争いは止まらない。“法を守らせる仕組み”が必要だった。
そこで1495年のヴォルムス帝国議会で導入されたのが、帝国クライス制である。
帝国を10〜12の「クライス(行政区)」に分け、それぞれが
- 防衛
- 税の徴収
- 治安の維持
を分担する仕組み。皇帝がすべての領邦と直接交渉するのではなく、クライス単位で調整することで統治が大幅にスムーズになった。
これは“中央集権国家”ではない。
だが、ばらばらの帝国を“ゆるやかに結びつける”ための、とても賢い発明だった。
まるで、ひび割れた器をつなぎ止める“金継ぎ”のような制度だった。
諸侯との駆け引きと皇帝権の限界
とはいえ、マクシミリアン1世の改革は順風満帆ではない。
諸侯は皇帝の権限が強まることを恐れ、“改革の代わりに見返りをよこせ”と迫る。その結果、皇帝は
- 共同防衛税(帝国税)
- 諸侯の自治権の保証
など、いくつもの妥協をしなければならなかった。帝国は結局、“中央集権国家”にはなれなかった。
むしろ「諸侯が話し合って決める連邦国家」に近い形が整っていく。それでも、改革がまったく無意味だったわけではない。
彼が作った制度は、のちの皇帝たち――カール5世、フェルディナント1世、レオポルト1世……
へと確実に受け継がれ、帝国は300年以上も命脈を保つことになる。
まとめ
1494年、フランス王シャルル8世の進軍は、イタリアの華やかなルネサンス都市を震わせた。
文化の光は、強い政治の土台がなければ簡単に消えてしまう。その現実を前にして、マクシミリアン1世は帝国の未来を守るため、
大胆な「帝国改革」に踏み出した。永久平和令、帝国クライス制――
どれもすぐに花開く改革ではなかったが、これがのちのハプスブルク皇帝たちの力となり、帝国が300年以上も生き延びる“見えない骨格”となっていく。
とはいえ、外からの脅威に備えるためには、内の秩序を築かねばならない──まさにその決断の瞬間であった。
しかし、この改革は皇帝の絶対権力を生むことはなく、むしろ諸侯との合意の上に成り立つ「連邦的帝国」の始まりとなった。
帝国は統一も分裂も抱え込みながら、やがて三十年戦争、そしてウェストファーレン条約へと続く道を歩んでいくのである。▶︎ 三十年戦争とは?宗教戦争の仮面をかぶった国家間戦争
参考文献
- Evans, R. J. W. Rudolf II and His World. Oxford University Press, 1973.
- Parker, Geoffrey. The Thirty Years’ War. Routledge, 1997.
- Whaley, Joachim. Germany and the Holy Roman Empire 1493–1806. Oxford University Press, 2012.
- 山内進『神聖ローマ帝国 1495–1806』岩波新書、2020年。
- 川成洋編『ハプスブルク事典』丸善出版、2023年。

