1889年1月30日。
ウィーン郊外マイヤーリンクの狩猟館で、皇太子ルドルフと17歳のマリー・ヴェッツェラが息を引き取っているのが見つかった。
“マイヤーリンク事件”。それは恋と政治、そして帝国の行く末がぶつかりあった、ハプスブルク家最大の悲劇である。
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この記事のポイント
- 遺書に刻まれた言葉が、彼の絶望と愛の終着を物語る
- 自由を求めた母と、理解を求めた息子──ふたりの魂は鏡のように響きあっていた
- 死から25年後、第一次世界大戦が勃発、ハプスブルク帝国の黄昏が始まる
自由を夢みた皇太子
ルドルフは1858年、フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベート(シシィ)の長男として生まれた。
幼いころから好奇心が強く、自然科学、動物学、政治学に熱心だった。しかし、その“柔らかい感性”は、軍人らしさと規律を重んじる父とは噛み合わなかった。
ルドルフが民族の自治や教育改革を語るほど、フランツ・ヨーゼフは「皇室の秩序を乱す危険思想」と感じ、政治から遠ざけていったとされる。
その孤独はやがて、心の深いところで“絶望”と結びついていく。
「皇太子としてではなく、一人の人間として生きたい」彼は何度も周囲にそう漏らしていた。そう望むことすら、帝国では許されなかった。
─ふたりが選んだ“出口”

マリー・フォン・ヴェッツェラと遺書 (出典:Wikimedia Commons)
1889年1月。ルドルフは愛人マリー・ヴェッツェラを伴い、ひっそりと狩猟館へ向かった。彼女はまだ17歳。
だが彼女の手紙には、「あなたとなら死ぬことも怖くありません」という一文が残されている。当時の証言によれば、ふたりは最後の夜、暖炉の前で長く語り合っていたという。
窓の外では雪が静かに降りつづき、館全体がまるで外界から切り離されたような静けさに包まれていた。
翌朝、扉が破られると、ルドルフはこめかみに銃創を、マリーは胸に弾丸を受けて倒れていた。最初の発表は「脳卒中」。
すぐに「心中」へ訂正され、教会葬のため、“瞬間的な錯乱”という理由が付けられた。遺書にはこうあった。
「われらは共に死なねばならぬ。私の愛しき魂よ――」
その筆跡は震えておらず、むしろ最後まで“理性の火”が消えなかったことを示していた。
母エリザベートの影──

皇妃エリザベート (出典:Wikimedia Commons)
シシィは、宮廷のしきたりや束縛に耐えられず、旅に逃れるように生きた皇妃だった。彼女の背中に息子は憧れを抱き、また深い孤独も感じていた。
幼いルドルフは、祖母ゾフィーに強く管理され、母はほとんど側にいられなかった。成人した後、ルドルフは母に心を寄せ、シシィもまた彼に自分の影を見ていた。
ルドルフの死を知らされたとき、シシィはただひとこと、「あの子は、私のように自由を求めすぎたのね」とつぶやいたと言われる。
その後、彼女は深い喪失感に飲まれ、旅先で黒い喪服をまとい続けることになる。
帝国の終わりへ──
ルドルフの死は、帝国の未来を大きく揺さぶった。後継となったフランツ・フェルディナント大公は、25年後の1914年、サラエヴォで暗殺される。

サラエボ事件 (出典:Wikimedia Commons)
マイヤーリンクで響いた銃声は、やがてサラエヴォの銃声と重なり、そのまま第一次世界大戦の号砲へとつながっていった。
まとめ
皇太子ルドルフの死をめぐって、しばし語られる問いがある。「ゾフィー大公妃の教育は、あまりにも厳しすぎたのではないか?」
ルドルフの幼少期、彼の心を育てたのは実母シシィではなく、“鉄の大公妃”と呼ばれたゾフィーだった。彼女は帝室の未来を案じるあまり、弱さや迷いを許さず、皇太子に“強さ”だけを求めた。

若きゾフィーの肖像画 (出典:Wikimedia Commons)
けれどその教育は、感受性の豊かだった少年には大きな負担となり、父とは噛み合わず、母には近づけず、心の逃げ場を失わせていった。
ゾフィーがそれを意図したわけではない。彼女なりの「愛」と「責任」のかたちだった。しかし、その愛が鋼のように硬かったことは、間違いなくルドルフの心に深い影を落とした。
もし、彼にもう少しだけ寄り添う大人がいたなら――。
その問いは、今も静かに残されている。▶︎ 大切なのは自由か規律か?【ゾフィーとエリザベート、帝国をめぐる嫁姑戦争】
そして、彼の死によって空いた大きな穴を誰も埋められないまま、ハプスブルク帝国は黄昏へと向かっていった。
関連する物語:フランツ・フェルディナントとは? 一発の銃弾が帝国を終わらせた日
📖 エリザベートとは? “シシィ”として知られる悲劇の皇妃とハプスブルク家の運命
参考文献
- Archiv der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, “Korrespondenzen und Berichte zum Tod des Kronprinzen Rudolf”(ウィーン科学アカデミー文書館/1889年当時の報告書)
- Rudolf von Habsburg, Abschiedsbrief an Marie Vetsera(ルドルフ皇太子の遺書、1889年)
- Nachrichten aus dem Wiener Hof, 1889年2月号(当時の新聞報道・マイヤーリンク事件特集)
- Hamann, Brigitte. The Lonely Heir: The Tragedy of Crown Prince Rudolf. Vienna: Amalthea Verlag, 1978.
- King, Greg. The Assassination of the Archduke and the Fall of the Habsburg Empire. St. Martin’s Press, 2013.
- Brook-Shepherd, Gordon. The Last Habsburg. London: Weidenfeld & Nicolson, 1968.
- Matuschka, Johannes. Rudolf und Mary: Das Geheimnis von Mayerling. Amalthea Verlag, 1989.
- Wurzbach, Constantin von. Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 25. Wien, 1889.
- 中野京子『名画で読み解く ハプスブルク家12の物語』光文社新書, 2015年

