涙をこらえながら、少女は北海の荒波を見つめていた。スペイン王女ファナ──わずか16歳。
(左がスペイン王家のフアナ、右がハプスブルク家のフィリップ)
黒いヴェールに包まれたその瞳には、まだ帝国の未来が映ってはいなかった。だがこの瞬間、ヨーロッパの命運は、確かに彼女の小さな肩に乗っていたのである。
📖 フアナの基本情報はこちら ▶
この記事のポイント
-
夫への愛と執着から、「狂女」と呼ばれやがて幽閉されたフアナ
-
母からカスティーリャ女王の位を受け継ぐも、王位はけして譲らず
-
やがて、彼女の血を継ぐ息子が“日の沈まぬ帝国”を築いた
「スペイン王家との二重結婚」
ハプスブルク家がスペイン王位を継承した背景には、周到に張り巡らされた政略結婚の網がある。その核心が、1496年に行われた「スペイン王家との二重結婚」だった。
これは単なる“婚姻による同盟”ではない。
カスティーリャ女王イサベラとアラゴン王フェルナンドの子ファナと、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子フィリップ(のちのフィリップ美公)。さらにその妹マルガレーテとスペイン王子ファン。
両家の兄妹同士による、二重の婚姻だった。
(スペインとの二重結婚 図解)
この結婚に際し、当事者たちの間では数十項目に及ぶ条約が交わされ、なかでも「国家継承に関する条項」は慎重を極めた。
当時、継承とは“血統と寿命の綱引き”だった。つまり、どちらの家系が長生きするか──その勝敗こそが帝国の未来を左右した。
「狂女ファナ」とフィリップ美公の悲劇
スペインからネーデルラントに船出した王女ファナは、海を渡って初めて夫フィリップと出会った。金髪碧眼の青年は「美公」と称され、明るく社交的なフランドル文化を体現していた。
ファナは一目で心を奪われた。だが──それが彼女の悲劇の始まりでもあった。
享楽的なフィリップは結婚後も女遊びをやめなかった。敬虔なカトリック教育を受けて育ったファナは、夫への独占欲を抑えきれず、やがて精神を病みはじめる。
狂気の愛、逃げる夫
史料によれば、ある日女官に嫉妬したファナは、彼女の髪を断ち切り、泣き叫ぶ姿を無表情に見下ろしたという。フィリップは妃を持て余し、ファナから離れてゆく。
それでもファナの愛情は変わらなかった──だからこそ、1506年に夫が急死したとき、彼女の精神は完全に崩壊した。
フィリップの柩を抱きしめ、埋葬を拒み、各地を彷徨いながら遺体に語りかける姿は、狂女ファナの伝説として後世に語られる。
相続権は誰の手に?
婚姻契約時点では、スペイン王家に王子ファンが健在だった。
しかし彼は早世。続いて姉イサベル、さらにその息子までもが相次いで亡くなり、カスティーリャの正統な継承者として残ったのは、ファナただ一人となった。
つまり、偶然の死と寿命の逆転によって、スペイン王位はファナに集中したのである。そしてその夫フィリップは、事実上のスペイン国王となった。
だが彼もまた急死し、残されたのは──精神を病んだファナと、まだ幼い息子カール(のちのカール5世)だった。
ハプスブルク家の決断
ハプスブルク家はここで決断する。
ファナを政治の表舞台から排除し、カールを「両親の正統な継承者」として育てる。祖父マクシミリアンは孫を神聖ローマ皇帝候補として推し、同時にスペイン王位の教育も施す。
ファナはトルデシリャスに幽閉され、名目上は「女王」として在位し続けたが、政治的には完全に排除された。
(家系図と相関図)
こうしてカールは、1516年にスペイン王カルロス1世として即位し、さらに1519年には神聖ローマ皇帝カール5世となる。その背後には──死と狂気と婚姻によって織りなされた“継承の連鎖”があった。
「長生きした者が笑う」――婚姻条項の核心
この二重結婚の本質は、単なる政治的同盟ではない。まさに「サバイバル・レース」だった。
交わされた条約の中心にはこうある。
“若くして死亡した場合、その配偶者が国を継承する”
“嫡男を遺さず死んだ場合は、配偶者もしくはその子が継承する”
つまり、結婚した当人の“死の順番”がすべてを決めたのである。ハプスブルク家はこの条項を武器に、スペイン王家の断絶を“婚姻によって合法的に奪う”ことに成功した。
誰も戦争を起こさなかった。ただ、王子たちが死に、王女が狂い、王妃が幽閉され、子だけが残った。その子が、二つの帝国を手にしたのだ。
まとめ
なぜハプスブルク家がスペインを継承できたのか?
答えは明確である。彼らは賭けに勝ったのだ──愛ではなく契約に賭け、戦争ではなく婚姻に賭け、そして誰よりも“長生き”した。
条約があり、証人がいた。あとは、血統の偶然と運命の死が、帝国の継承者を決めてくれたのである。ファナの愛と狂気は利用され、幽閉され、歴史に置き去りにされた
だが、彼女が産んだ子、カール5世こそが、スペインと神聖ローマ帝国を統一し、「日の沈まぬ帝国」の君主となる。
帝国の夜明けは、ひとりの少女の涙とともに、北海の波間から始まっていた──。
さらに詳しく:
📖 【狂女と呼ばれたカスティーリャ女王フアナ】愛と幽閉の真相
📖 カール5世 (カルロス1世)|太陽の沈まぬ帝国、その始祖の孤独
📖 フェリペ1世 (フィリップ美公)|王国の影に消えた美貌の王
参考文献
- 画像出典:Wikipedia Commons (パブリックドメイン)
- ハプスブルク家の女たち 江村洋 (講談社現代新書)
- Archivo General de Simancas, Cartas de Felipe el Hermoso y Juana la Loca, Sección de Estado
- Wiener Haus-, Hof- und Staatsarchiv, Hausarchiv Familienakten Maximilian I
- Geoffrey Parker, Emperor: A New Life of Charles V, Yale University Press, 2019
- Hermann Wiesflecker, Kaiser Maximilian I. Das Reich, Österreich und Europa an der Wende zur Neuzeit, Oldenbourg, 1991
- Joseph Pérez, La España de los Austrias, Armand Colin, 1999
- Bethany Aram, Juana the Mad: Sovereignty and Dynasty in Renaissance Europe, Johns Hopkins University Press, 2005
- Karl Brandi, The Emperor Charles V, W.W. Norton, 1939
- Merry Wiesner-Hanks, Women and Gender in Early Modern Europe, Cambridge University Press
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
コメント