ハプスブルク家──約650年にわたりヨーロッパを支配した王朝は、なぜ突然終わったのか?それは、ひとつの事件ではなく、積み重なった矛盾の崩落だった。
民族主義の台頭、第一次世界大戦の泥沼化、そして時代と乖離した“神聖なる王権”の理念。だがこの壮麗な崩壊を、まさに玉座の上から見届けた一人の女性がいる。
(最後の皇后となったツィタ)
最後の皇后、ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ。彼女の視線を通して、滅亡の真因を紐解こう──。
この記事のポイント
- 民族主義の台頭により、各国が独立を求め帝国内の統一が揺らいだ
- 第一次世界大戦を契機として、多民族帝国の限界が露呈
- 神授王権が「民主主義」の波に呑まれ、650年の歴史が終焉
玉座の重みを背負って
ツィタ・フォン・ブルボン=パルマは、イタリアにルーツを持つカトリック貴族の娘として生まれた。その聡明さと気高さは、少女時代から修道院でも有名だった。
だが彼女が歩むことになった道は、信仰と宮廷政治の交差点だった。
「わたしは、皇帝の妻として生き、死ぬ覚悟がある」
そう語った彼女は、結婚式のときすでに、ただの皇族の妃ではなかった。王座の隣に立つ者としての意識を、自らに課していたのである。
──ツィタと“運命の男”
フランツ・フェルディナントの暗殺によって王位継承の座がめぐってきたのは、甥のカールだった。穏やかで信仰深い男、そして誰よりも家族を大切にする優しい皇族──。
1911年にふたりは結婚し、理想に燃える若き夫妻となる。
1916年、フランツ・ヨーゼフが崩御し、カールは即位。ツィタはその瞬間から「皇后」となった。だがそれは、祝福ではなく、運命の重圧だった。
(カール1世とツィタの婚礼)
瓦解する帝国、崩れゆく秩序
第一次世界大戦。帝国のあちこちで民族が独立を叫び、兵士は疲弊し、経済は破綻の兆しを見せる。ツィタは皇后として病院を巡り、傷病兵に声をかけた。時には手ずからスープを配り、祈りを捧げたという。
しかし、そんな“皇室の慈善”も、民衆の怒りを鎮めるには足りなかった。
講和の道を模索したツィタは、兄ジクストゥスをフランスに送り、単独講和を目論む。だがこれは連合国側に不信を抱かせ、ドイツとの同盟関係すら悪化させた。
密使の書簡が暴露され、「皇后はフランスのスパイか」とまで言われた。真実は──彼女はただ戦争を終わらせたかったのだ。
だが、和平とは時に武器よりも難しい。
退位か、信念か──ツィタの叫び
1918年、敗戦濃厚。退位勧告が宮廷に響く。 軍の指揮官たちは「和平と秩序のためには皇帝退位が不可欠」と進言し、議会も民衆もそれを支持する。
ツィタは退位に強く反対した。後年の証言によれば、退位文書にサインしようとするカールに対し、ツィタが静かに抗議したという逸話も残されている。
たとえ真偽のほどは定かでなくとも、ツィタの信念が揺るがなかったことだけは確かである。最終的にカールは「国家運営から身を引く」と発表するが、正式な退位は認めなかった。
ツィタの影響がそこにあったことは疑いない。 だが現実は冷酷である。オーストリア共和国が成立し、ハプスブルク家は退去を命じられる。
ツィタは新生共和国に頭を下げることなく、幼い子らを抱いて列車に乗った。
亡命、そして祈り──ツィタが見た“帝国の残像”
亡命先での生活は厳しく、帝国の栄光は遠い過去のものとなった。
宮廷も宝石も給金もなく、マデイラ島の粗末な家には暖房すらなかった。皇帝カールはそこで病に倒れ、帰らぬ人となる。
(スイス亡命後のカール1世一家)
最期を看取ったのは、ツィタと長男オットーだったと伝えられている。
ツィタは黒衣に身を包み、残された七人の子を守るために奔走した。義妹の支援、募金活動、修道院の援助──そのどれにもすがりながら、亡命先を転々とした。
彼女の心にあったのは、信仰と一族の名誉を次代に受け継ぐという決意であった。
時代の証人として──“最後の皇后”の遺したもの
1982年、亡命から64年を経て、ツィタはついにオーストリアの地を再び踏む。 人々は黒衣の老婦人に目を見張った。彼女こそ、かつて栄華とともにあった皇后──
いや、「時代を超えた王家の証人」であった。
だがツィタの遺産は、記憶の中だけに留まらなかった。 長男オットー・フォン・ハプスブルクは、母の信念を受け継ぎ、王政復古ではなく「ヨーロッパの統合」という理想に身を投じた。
ヨーロッパ議会の議員として活躍し、国境と憎しみを越える平和の枠組みに尽力したのである。
ツィタはその歩みを遠くから見守りつつ、家名が“亡霊”としてではなく“希望”として受け継がれていくことを願っていたのかもしれない。
1989年、ベルリンの壁が崩壊。東欧の秩序がまた崩れ始めるその年、ツィタは97歳で世を去る。 ツィタの列福手続きがローマ教皇庁で正式に開始されたのは、2004年であった。
まとめ
ハプスブルク家の崩壊、そのきっかけとなったのは長年の多民族統治による内部の緊張、各民族の独立運動、そして19世紀から広がり続けた民族主義の波。
それらが第一次世界大戦という契機を得て一気に噴き出した結果である。
また、神授の王権に依存した旧来の統治理念は、「議会制民主主義」や「共和制」を求める世論に応えることができなかった。こうした複合的な要因が絡み合い、時代の流れに逆らいきれなかったハプスブルク家は、ついに約650年の歴史に幕を下ろすこととなった。
そして──ハプスブルクの血は、今も絶えてはいない。彼女が育てた子どもたちは亡命先で家名を守り抜き、現在もその末裔たちはヨーロッパ各地に健在である。
さらに詳しく:
📖 巨大王朝ハプスブルク家の末裔は今 | 平和な帝国終焉、一族の現在
📖 ハプスブルク家の家系図でたどる、650年の王朝史
📖 図解ハプスブルク|年表でみる王朝の盛衰
参考文献
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Jean Sévillia, Zita, impératrice courage, Perrin, 1997.
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Gordon Brook-Shepherd, The Last Empress: The Life and Times of Zita of Austria-Hungary, HarperCollins, 1991.
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中野京子『名画で読み解く ハプスブルク家12の物語』光文社、2015年。
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オーストリア国立図書館アーカイブ “Haus-, Hof- und Staatsarchiv Wien” より皇室通信記録(1916–1919)
- ハプスブルク家 (江村洋著)
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