ハプスブルク家について調べていると、あるところで少し混乱する。
スペイン・ハプスブルク家。
オーストリア・ハプスブルク家。
どちらも同じ「ハプスブルク家」なのに、なぜ二つあるのだろう。
しかも、カール5世、フェリペ2世、フェルディナンド1世、マリア・テレジア……と人物を追っていくと、スペインとオーストリアが行ったり来たりする。
「結局、この人はどっちなのか」そう思ったことがある人も多いはずだ。
その分岐点にいたのが、カール5世と、その弟フェルディナンド1世である。
二人は兄弟だった。
この記事では、まず家系図から二人の関係を確認し、そこからなぜスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家が生まれたのかをたどってみよう。
家系図をたどる
ここを押さえておくと、一気に分かりやすくなる。
(マクシミリアン1世からカール5世までの家系図(クリックで拡大/詳細表示)English Edition: Family tree from Maximilian I to Charles V)
カール5世とフェルディナンド1世は、フィリップ美公とフアナ・デ・カスティーリャの息子である。
つまり、二人は兄弟だ。ただし、育った場所も、担った役割も大きく違った。
兄カールは、母フアナを通じてスペイン王家の継承権を受け継ぎ、父フィリップ美公からブルゴーニュの領地を受け継いだ。
さらに、祖父マクシミリアン1世の死後には、神聖ローマ皇帝となる。一方のフェルディナンドは、兄とは異なる道を歩む。
ここで重要になるのが、結婚である。
フェルディナンドは1515年、ハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世の娘アンナと結婚した。
この婚姻によって、フェルディナンドは中東欧の王位継承問題に深く関わることになる。
そして1526年、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死すると、フェルディナンドはボヘミア王位とハンガリー王位の継承を主張することになった。
こうして兄カールと弟フェルディナンドは、それぞれ異なる地域にハプスブルク家の基盤を築いていく。
兄、カール5世
1500年、カールはフランドルのガンで生まれた。
彼が生まれた時点で、将来これほど広大な領地を受け継ぐことになるとは、もちろん誰にも分からない。
しかし、家系図をたどってみると、その理由が見えてくる。

父はフィリップ美公。
母はカスティーリャ女王フアナ。
父方の祖父はマクシミリアン1世。
母方の祖父母は、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世である。
つまり、カールの家系図をたどるだけで、ハプスブルク家、ブルゴーニュ、カスティーリャ、アラゴンという複数の王家・領域がつながってくる。
これこそ、ハプスブルク家の歴史が「人から見ると面白い」理由でもある。
領土が地図の上で突然増えたわけではない。その背景には、「誰と誰が結婚したのか」という人間関係がある。
受け継いだもの
カールは1516年、母方より受け継いだ王位継承権を背景に、スペイン王カルロス1世となる。
そして1519年、祖父マクシミリアン1世の死後、神聖ローマ皇帝選挙で選ばれ、皇帝カール5世となった。
こうして一人の人物のもとに、
スペイン。
ネーデルラント。
オーストリア。
イタリアの一部。
そしてスペイン王権のもとにあったアメリカ大陸の領域など、非常に広い範囲の領地・権利が集まった。
そのため、カール5世はしばしば「日の沈まぬ帝国」の君主として語られる。
ただし、ここで注意したい。
これらすべてが、一つの国家として一人の皇帝に直接統治されていたわけではない。それぞれの地域には、それぞれの王位、法、制度、特権が存在していた。
カール5世が抱えていたのは、「一つの国」というより、異なる地域と王位を一人の君主が兼ねている巨大な君主国の集合だったのである。

© Habsburg-Hyakka.com (複数の一次史料・研究資料をもとに作成)
弟フェルディナンド1世─
ここで、もう一度家系図を見てみよう。

カールとフェルディナンドは兄弟だ。
しかし、二人が同じものをすべて受け継いだわけではない。
フェルディナンドは、兄カールの代理として神聖ローマ帝国のドイツ地域の統治に関わりながら、オーストリアを基盤に勢力を築いていった。
さらに、妻アンナとの婚姻によって、ボヘミア・ハンガリー王位との関係を得る。
1526年のモハーチの戦い後、フェルディナンドはボヘミア王・ハンガリー王位をめぐる継承問題に直面した。
この結果、フェルディナンドのハプスブルク家は、オーストリアを中心に、ボヘミアやハンガリーへと勢力を広げていくことになる。
ここが、後の「オーストリア・ハプスブルク家」につながる重要な分岐点である。
なぜ家を分けたのか?
ここが、この話の一番重要なところである。
カール5世が抱えていた領地と権利は、あまりにも広大だった。しかも、宗教改革によって神聖ローマ帝国内の政治状況は大きく揺れていた。
フランス王との対立もある。
オスマン帝国からの圧力もある。
スペインでは別の政治課題がある。
つまり、一人の君主がすべてを同じ方法で統治することは難しかった。そこで、カールは晩年、ハプスブルク家の支配領域を次の世代へ振り分けていく。(※)
息子フェリペには、スペイン王位と、それに結びつく領地・権利を継承させる。
弟フェルディナンドには、オーストリアを中心とするハプスブルク家の領域と、神聖ローマ帝国における皇帝位を引き継がせる。
ここから、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家という二つの系統がはっきりしていく。

全体の家系図 (©️Habsburg-Hyakka.com) 転載する際は、リンク付け願います
ただし、これは「ある日突然、帝国を二つに分割した」という単純な話ではない。兄カールの家系からスペイン系が続き、弟フェルディナンドの家系からオーストリア系が続く。
そう考えると、家系図が非常に分かりやすい。
二つに分かれても「家族」
ここが、ハプスブルク家のさらに面白いところである。
スペイン系とオーストリア系に分かれたからといって、完全に別の王家になったわけではない。二つの系統は、その後も婚姻によって何度も結びついていく。
フェリペ2世の4人目の妻となったアナ・デ・アウストリアも、オーストリア系ハプスブルク家の出身である。
つまり、一度分かれた家系が、今度は婚姻によって再びつながる。
ここから、ハプスブルク家の家系図はさらに複雑になっていく。そして、何世代もたつと、
「この人はスペイン系なのか、オーストリア系なのか?」というだけでは整理できなくなってくる。
なぜなら、両方の血筋を持つ人物が増えていくからである。これが、ハプスブルク家の家系図を難しく、そして面白くしている。
「スペイン・ハプスブルク家」とは何だったのか
こうして家系図を最初からたどってみると、スペイン・ハプスブルク家は、突然現れた別の王家ではないことが分かる。
その出発点にいるのは、兄弟だった。
カール5世。
フェルディナンド1世。
兄カールの系統からスペイン・ハプスブルク家が続き、弟フェルディナンドの系統からオーストリア・ハプスブルク家が続いた。
そして、その二つの系統は分かれたあとも、婚姻によって何度も再び結びついた。
だから、ハプスブルク家の歴史を見るとき、「スペイン」「オーストリア」と国名だけを覚えていくと、どうしても複雑になる。
むしろ、
誰が誰の子なのか。
誰と誰が結婚したのか。
どこで家系が分かれ、どこで再びつながったのか。
その順番で見ていったほうが、ずっと分かりやすい。
ハプスブルク家の歴史は、地図だけではなく、家系図を開いてみると一本の物語としてつながってくる。
まとめ
ハプスブルク家がスペインとオーストリアの二系統に分かれていった背景には、カール5世とフェルディナンド1世という兄弟がいた。
兄カール5世はスペイン王位と神聖ローマ皇帝位を得て、巨大な君主国を築いた。
弟フェルディナンド1世はオーストリアを基盤とし、ボヘミアやハンガリーの王位継承にも関わることで、中東欧におけるハプスブルク家の基盤を築いた。
そして次の世代から、
カール5世 → フェリペ2世 → スペイン・ハプスブルク家
フェルディナンド1世 → オーストリア系ハプスブルク家
という二つの系統がはっきりしていく。しかし、二つに分かれた家系は、その後も婚姻によって何度も交わった。
それが、後のハプスブルク家の複雑な家系図を生み出していく。分かれて、またつながる。
この繰り返しを家系図で追っていくと、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家の関係が見えてくる。
そして、その先にはカルロス2世の断絶、スペイン継承戦争、マリア・テレジア、マリー・アントワネットへと続く、さらに大きな物語が待っている。▶︎なぜ王家は滅びたのか? スペイン・ハプスブルクの断絶
参考文献
- Manuel Fernández Álvarez, Carlos V: una biografía
- Heinz Schilling, Karl V.: Der Kaiser und die Reformation
- 『世界の歴史10 スペイン・ハプスブルク』
- 村上陽一郎訳『カール五世の手紙』“
- (※) AT-OeStA/HHStA RK Reichsakten in genere 36/37-1-7 Karl V. Resignation auf das Kaisertum, 1556.08.03 (Einzelstück (Aktenstück, Bild, Karte, Urkunde))
- Österreichisches Staatsarchiv|Karl V. Resignation auf das Kaisertum, 1556
- Österreichisches Staatsarchiv|Korrespondenz zwischen Kaiser Ferdinand I. und den Statthaltern der burgundischen Niederlande
- České sněmy|Ferdinands und Annas Instruction für ihre Gesandten zur böhmischen Königswahl, 1526
フェルディナンドはオーストリアを基盤とし、1515年のアンナとの結婚、そして1526年のボヘミア・ハンガリー王位継承を通じて、中東欧におけるハプスブルク家の基盤を築いていった。
(注) カールは1522年にはオーストリア領をフェルディナンドに移しており、フェルディナンドは1531年にローマ王に選出されている。さらに1556年の退位では、カールの皇帝位・帝国統治の継承がフェルディナンドに移ることが一次史料( The Abdication of Emperor Charles V (1555/56))から確認できる。
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

