1793年。パリで断頭台の音がひびいた日、議会では若い革命家サン=ジュストがこう言ったと記録にある。
「王家の血は、もうこの国には重すぎる」そのひと言で、マリー・アントワネットの子どもたちは、まだ幼いのに“国家の敵”として扱われるようになった。
運命は、この日を境に大きく動き出す。
この記事のポイント
- マリー・アントワネットの子女として生まれた子供達
- ふたりは夭逝するも、生き残ったふたりも革命の嵐に飲まれた
- 王党派に担がれたルイ17世は監禁され獄死、生き残ったのは姉マリー・テレーズだけだった
ベルサイユに生まれた四つの命

マリーアントワネットと子供達 (出典:Wikimedia Commons)
ルイ16世とマリー・アントワネットの間には、四人の子どもがいた。
絢爛たるヴェルサイユで育った幼い日々は、愛と音楽に満ちていた。この小さな命が、のちに“革命の象徴”になるなど、だれも想像していなかった。
- マリー・テレーズ:唯一の生存者 (享年72)
- ルイ・ジョゼフ:革命前に夭折 (病死)
- ルイ=シャルル(名目上のルイ17世):革命中に獄中死
- ソフィー:ベアトリス:幼くして夭折
家庭教師アルエは、後年の手記にこう書いている。
「ルイ・シャルルは母のそばを離れず、姉のマリー・テレーズは小さなころから気品があった。」母が深く愛した子どもたちの笑い声は、やがて革命の叫び声にかき消されていく。
幽閉された王子 ―
1793年、父ルイ16世が処刑される。続いて母マリー・アントワネットも断頭台へ。
その直後、8歳のルイ・シャルルは、ただ“王の息子”という理由だけでタンプル塔に幽閉される。彼を預かったのは、靴職人アントワーヌ・シモンだった。

投獄されたルイ・シャルル(ルイ17世)と、靴職人 © Habsburg-Hyakka.com
「再教育」とよばれたものは、革命歌を歌わせ、母を侮辱する言葉を強いるという、子どもには意味すらわからない行為だった。
それはしだいに、心をすりつぶすような“拷問”へと変わっていく。のちに監督官が残した報告書には、こう記されている。
「彼は抵抗する力を奪われ、ただ命令に従うだけの子どもになっていた」光の入らない部屋での隔離、声をかける者もいない毎日。彼の世界は、壁と闇だけだった。
最後は獄中で ―
10歳の終わり、1795年6月。
息をひそめるような生活を続けた少年は、わずか十歳で静かにその生涯を閉じた。看取る者はおらず、名も記されないまま急いで埋葬された。
解剖を担当した医師デュションは、記録の余白に「彼は孤独に殺されたのだ」と短く書き残している。
一方で、見守っていた別の医師ペルタンは、胸の奥から小さな「心臓」を密かに取り出し、未来の検証に備えて保管したと伝えられている。
フランスが革命を終え、帝政になり、王政が倒れ、国家の姿が何度も変わっていく間も――その心臓だけは静かに残り続けた。

ルイ17世の保存された心臓 出典:Wikimedia Commons
そして2000年。現代のDNA鑑定により、その心臓はマリー・アントワネットの兄妹と同じミトコンドリアDNAを持つことが確認された。
ようやく、彼は“王家の子ども”として名を取り戻す。生前は守られなかった名「ルイ17世」が、二百年の時をこえて、ようやく彼のもとへ返ってきたのだ。
生き残った王女

左側が姉マリー・テレーズ (出典:Wikimedia Commons Public Domain)
マリー・アントワネットの子供で生き残ったのは彼の姉、マリー=テレーズだけであった。
家庭教師マルタンの回想録には、マリー・テレーズをこう評している。「母のやさしさと父の強さをあわせ持つ娘だった」
母の処刑後も、彼女は同じ塔に幽閉され続けた。
階下から聞こえる弟の泣き声。だが、その声が止んでも、面会は一度も許されなかった。やがて彼女は17歳の誕生日に、ハプスブルク家との囚人交換で釈放される。
――母の故郷、ウィーンへ。
祖国を離れた彼女を迎えたのは、栄光ではなく、空虚だった。フランスでは家族が断たれ、オーストリアでも居場所を失う。彼女が書き残した日記には、こう記されている。
「わたしはだれの娘でもなく、だれの国の者でもない」
革命が奪ったもの
のちにルイ16世の甥ルイ・アントワーヌと結婚し、王妃として帰国するが、華やかな宮廷には戻らなかった。

出典:Wikimedia Commons
質素な暮らしを貫き、孤児や戦災孤児を支援しながら、失われた家族の面影を胸に、静かに生涯を終えた。
ルイ17世の死とマリー=テレーズの沈黙。その対照こそ、フランス革命の残酷な象徴である。群衆が奪ったのは権力だけではない。
母の腕のぬくもり、兄妹の笑い声、そして“愛”という名の平凡な幸福だった。マリー・アントワネットが最後に見上げた空の下、子どもたちはそれぞれの地で、別々の孤独を生きた。
まとめ
ルイ17世は、名ばかりの“王”として孤独の中で息を引きとり、マリー・テレーズは、生きながら記憶の中にとどまった。どちらも、彼らなりの「たたかい」だった。
革命家サン=ジュストは「自由とは徳だ」と言ったが、その影で消えた小さな命をだれもふり返ろうとはしなかった。
――正義の名のもとに、どれほどの愛が失われたのか。問いの答えは、いまも出ないままだ。
そして次に浮かぶ疑問は、ただひとつ。
なぜ、ここまでマリー・アントワネットは憎まれなければならなかったのか?彼女の“罪”とは、本当に何だったのか?
王妃の転落は、家族の悲劇の始まりでもあった。▶︎ 【王妃はなぜ憎まれたのか?】マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇
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参考文献
- Fraser, Antonia. Marie Antoinette
- Gendron, François. The Gilded Youth of Louis XVI
- Jean Tulard (ed.), Dictionnaire Napoléon
- 画像引用:Wikipedia Commons (パブリックドメイン)、ルイ17世の心臓: File: Coeur de Louis Charles de France (Louis XVII).jpg Photo by Zantastik, Wikimedia Commons, 2004. Used under Creative Commons or assumed public domain.
- (※) ルイ17世の監禁生活については、19世紀以降に多くの脚色や伝説が加えられており、史料による検証が求められる。本記事では、フランス国立公文書館所蔵の記録および近年の研究をもとに再構成している。

