かすかな呼吸が聞こえる。白絹に包まれた赤子は、母の腕の中で静かに眠っていた──
フェリペ・プロスペロ。悲願の王太子でありながら、その身体は生まれた瞬間から、王家の重荷に押し潰されそうだった。
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「近親婚が生んだ王太子」
フェリペ・プロスペロは、スペイン・ハプスブルク家の王フェリペ4世とその姪マリアナ・デ・アウストリアの間に生まれた男子である。
いとこ婚、兄妹婚、叔姪婚を繰り返してきたスペイン王家の「近親婚」の集大成とされ、誕生と同時に「王位継承者」とされた。
父フェリペ4世は、先妻との間に生まれた長男バルタサール・カルロスを早世で失い、王位の後継者がいないまま老境に差しかかっていた。

フェリペ4世とハプスブルク顎 (出典:Wikimedia Commons)
彼が晩年に再婚し、「ようやく得た男児」こそ、このフェリペ・プロスペロであった。その誕生は宮廷に歓喜をもたらし、マドリードは祝賀に沸いた。
だがその喜びは長くは続かない。王子は、明らかに弱々しかった。王国の未来は、またしても薄氷の上にあったのである。
命の短さと肖像画に託されたもの
1659年、宮廷画家ディエゴ・ベラスケスは、まだ幼いフェリペ・プロスペロの姿を描いた。黄金の椅子に立つ小さな王子は、どこか影を落としたように見える。

出典:Wikimedia Commons
この肖像画は1659年頃に制作され、母マリアナの弟・皇帝レオポルト1世に贈られたと考えられている。ゆえにベラスケスは、祝賀の肖像でありながら、ハプスブルク家の威厳と宮廷の礼法を過不足なく示す必要があった。
宮廷的道具立てが語る“虚勢と不安”
画面の中には、
- 重く垂れたカーテン
- 深い赤の絨毯
- 格式ある椅子
- 画面の外へ導く視線の流れ
- 足元の小犬
- そばに置かれた小さな帽子
といった、ハプスブルク宮廷肖像画の伝統的「道具立て」が周到に配置されている。
ミニチュアのセットのように丁寧に整えられたこれらの要素は、王家の威厳を保つための演出である一方で、その中心に立つ王子の“あまりにも弱い身体”を、そっと包み隠す役割も担っていた。
衣装と護符が示すもの
王子の衣装も、彼の置かれた状況を物語る。
銀糸の入った赤いスカートに、きめ細かな白いエプロン。子どもらしい服でありながら、王家の格式もしっかりと備えている。
胸元をよく見ると、「Vade retro, Satana(悪魔よ退け)」と刻まれた護符が下がっている。
さらに、邪視よけの小さな御守り、伝染病を避けるための青い玉、そして王子の居場所がわかるようにつけられた鈴。
これほど多くの“守り”を幼い子に必要としたこと自体、宮廷がどれほど彼の体を心配していたかを物語っている。
ベラスケスの“沈黙”が語る弱さ
画家ベラスケスは、病そのものを描いていない。
しかし、姉のマリー・テレーズやマルガリータの肖像が、無邪気さや誇らしさを自然に伝えているのに対し、フェリペ・プロスペロの絵からは、寄りかかる場所のない慎ましい気配、そして短い命を思わせる静けさがにじみ出ている。
王子はすでに、王国の未来を背負うにはあまりにも小さく、あまりにも弱かった。
王国の希望、そして喪失
王子の存在は、そのまま国の未来だった。
王宮だけでなく、人々もこのか細い命に希望を託していた。彼こそが、揺らぎはじめたスペイン帝国を支える柱になる──誰もがそう信じていたのである。
しかし1661年11月1日。
フェリペ・プロスペロは、わずか3歳でその短い生涯を閉じる。王国じゅうの鐘が悲報を告げ、宮廷は深い悲しみに包まれた。
そして奇妙な運命のいたずらのように、わずか5日後に次男カルロスが誕生する。のちに「呪われた王」と呼ばれるカルロス2世である。

少年時代のカルロス2世 (出典:Wikimedia Commons)
フェリペ・プロスペロの死は、ハプスブルク家最後の章が静かに開きはじめた合図だった。
近親婚の果てに生まれた「なれなかった王」
フェリペ・プロスペロは、王位につくことのなかった王子として名を残している。だが彼の死の意味は、それだけではない。
スペイン・ハプスブルク家は、血を保つために近親どうしの結婚を重ねてきた。その結果として生まれたのが、虚弱な子どもたちの連鎖であり、国家の安定を揺るがす深い影であった。
母マリアナはフェリペ4世の姪。
叔父と姪のあいだに生まれたフェリペ・プロスペロとカルロス2世は、すでに“遺伝の限界”に立たされた子どもたちだった。

運命の継承と王朝の終わり
カルロス2世の重い持病──「ハプスブルク顎」、発語の遅れ、不妊。そのすべては、もしフェリペ・プロスペロが成長していれば回避されたかもしれない未来だった。
だからこそ、彼の死はただの幼児の夭折ではなく、王朝が生き残れなくなったことを示す象徴的な出来事であった。
もし健康に育っていれば、のちのスペイン継承戦争は起こらなかったかもしれない。
だがその道は閉ざされた。王位は病弱なカルロス2世へと渡り、スペイン・ハプスブルク家はゆっくりと終わりへ向かって歩きはじめる。
まとめ
フェリペ・プロスペロの名が、多くの王のように年表に残ることはない。
けれど、その短い生涯は、王朝の希望と崩壊の両方を映す鏡であった。
近親婚の果てに生まれ、王になれなかった王子。
その姿は、王冠ではなく、王家の“限界”を刻んだ記憶として語り継がれている。
──そして王位を継いだのは、さらに深い病と孤独を背負う弟、カルロス2世であった。▶︎【スペインハプスブルク最後の王】カルロス2世の病と帝国断絶の真相
さらに詳しく:
📖 【なぜハプスブルク顎は生まれたのか?】近親婚がもたらした遺伝的異常と代償
📖 『ラス・メニーナス』の王女|ハプスブルクの血に縛られた少女の肖像
参考文献
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